寒川神社

寒川神社は、神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座。
相模国一宮で延喜式神名帳では名神大社に列している。
祭神は、寒川比古命寒川比女命。一般に佐河大明神とも呼ばれた。

 相模國郄座郡の寒川神社は、平安朝の延長五年(927)、延喜式に大社と記載される国家公共の祭場であり、明治四年(1871)六月に天皇の大命によって國幣中社に列しせられた。古記によって創建を考えると神亀四年(727)、或いは天平神護元年(765)とも言われるが、何れとすべきか詳らかではない。承和十三年(846)九月に始めて神位を授けられ、その後、斉衡・貞観・元慶年間に累進していった。源氏が鎌倉に開府してより、常に武家の崇敬する所となり、奥深い神域と壮麗な社殿とをみるに至った。また各時代に幣帛や神田が奉られ、春秋の祭礼も順調に営まれた。天正(1573〜)以後、時々に殿舎から回廊まで修繕されたが、それらは頗る縮小して附属の小社も多く荒廃し、昔日の景観も見られなくなってしまった。さらに明治初め、神田百石を政府のために割き、玉垣外の地五町余りを上納した。加えて鬱蒼とした老樹を伐り、粗末な民家が建てられるなど、神域の雑然たる有様もここに極まった。宮司丹羽与三郎はこれを深く嘆いて、郷里の人々に相談し土地を眺めて、帝室御料林に関する委託林の規定に副って願い出で、明治二十四年(1891)三月に許可が下りた。そこで民家を撤して花木を植え、広く敬神家を募って大いに復旧のことを計画した。天下四方に応じる者は数多く、社殿を大改修せんと欲して、往時の壮観さをみごとに取り戻したのである。その費用は巨額にのぼり、容易なことで工面できるものでは無かった。よって先ず長さ三十三尺の橋を修理し、その形を皷に似せて太皷橋と称し、次に玉垣六十三間を石で築き、堅牢にして麗しく修覆した。その工事は明治二十五年(1892)六月に始まり、十一月に完成して、経費三千円・職工三千人を要した。

「境内石碑より抜粋」

鳥居

神門

境内

拝殿

[末社] 宮山神社 … 七社八柱が合祀されている
  琴平社 大物主神
  八劍社 須佐之男
  雷社 建御雷之男神
  若宮八幡社 大雀命
  祢岐志社 聖神
  稲荷社 宇迦之御魂命
  三峰社 伊邪那岐命 伊邪那美命



南に向かって歩くと鳥居があった