志貴御県坐神社

志貴御県坐神社は、奈良県桜井市金屋に鎮座。
延喜式神名帳城上郡の「志貴御県坐神社大、月次新嘗」の論社。

境内社が何社かあったが、朽ち果てていたので未掲載。

金屋集落の北西山手に鎮座。旧村社。祭神は 大己貴神(神社明細帳)・御県の霊(大和志料)のほか、天津饒速日命などの説がある。由緒はつまびらかでないが、拝殿右には原始信仰を物語る磐座があり、境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」推定地とされるなど、鎮座の古さをしのばせる。
俗に「シキノ宮」と称し、大和六御県神(「延喜式祝詞)の一とされる。天平二年(730)「志癸御県」の神戸に城上郡内で租穀一千三五一束八把を定め、うち四束を祭神料とした(「大倭国正税帳」正倉院文書)。大同元年(806)神封二戸をあてられ(新抄格勅符抄)、天安三年(859)一月二七日に従五位下より従五位上に昇叙された(三代実録)。「延喜式神名帳に城上郡「志貴御県坐神社大、月次新嘗」とみえる。文明六年(1474)の宿院会米帳(大宮家文書)に「七升定地子(中略)シキノミヤノ四郎」とあり、シキノミヤは当社のことと考えられる。「日本書紀神武天皇二年二月二日条に、弟磯城(名は黒速)を磯城県主としたことがみえ、磯城県主は当社付近を中心として、のちの城上・城下郡に勢力をもち、大和朝廷と独自の婚姻関係を結んだ古代豪族であった。天武一二年に連となり、「新撰姓氏録大和国神別に志貴連は神饒速日命の孫日子湯支命の後裔とする。当社はこの名族によって奉斎されたものと推定される。ちなみに桜井市初瀬の与喜山のヨキは、湯支命のユキがなまったものと考え、式内社の志貴御県坐神社を初瀬の与喜天満神社にあてる説もある(度会延経「神名帳考証」)。

「寺院神社大辞典」より