廬山寺

日本廬山 廬山寺は、京都市上京区北之辺町にある寺院。
洛陽三十三所観音の第32番札所です。

 天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保三年(966)五十五歳で第十八世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現廬山寺通北に與願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月三日入滅まで、都に下った時の宿坊とされる。良源入滅後、次第相承の本光禅仙上人(嘉元二年・一三〇四寂)が現船岡山の麓に與願金剛院を再興する。一方、台密、戒浄(顕教)等事相伝承した住心覚瑜上人(1158〜1235)が京都出雲路に仏閣を建て、廬山寺と号す。

 廬山寺第三世並びに第五世明導照源上人(1298〜1336)が両上人の廬山、與願師跡を伝領し、與願金剛院師跡に廬山寺を統合し、與願を廃し、廬山寺とし、円密戒浄の四宗兼学道場として天台の別院となる。この明導上人、受法はもとより四宗兼学であったが、特に円に精通し、第四世並びに第六世実導仁空上人(1309〜88)が密教と共に浄戒二門にも力を注がれ、両上人によって円密戒浄の四宗兼学道場としての一家の密乗を成し、廬山寺流として経軌を根底とした天台秘密乗の教判を開説されたのである。この廬山寺流は実に伝教大師より南北朝時代における天台教学の全貌を知る手鑑と称すべく、真に日本天台の宝庫であると推奨される。この頃より寺号を廬山天台講寺と称し、更に第八世明空志玉上人が明の永楽二年(1404)、足利義満の命により明に派遣された時、明の唯実上人より中国の廬山にならって日本廬山と公称されて以後、度々文書等では日本廬山天台講寺と明記されることがあった。その後応仁の乱、永禄十二年(1569)にも類焼し、その時の再建勧進に「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓なり、誰かこれを帰敬せざらん」と述べ、「洛中の叡山」の気概にあふれていた。天正元年(1573)に現地に移転、宝永五年(1708)と天明八年(1788)京都の大火で堂舎類焼するが、代々歴朝の帰依厚く、寛政六年(1794)、禁裏、仙洞、女院の御下賜をもって再建されたのが現今の本堂である。

 大師堂において毎年二月の節分会に勤修される「追儺式鬼法楽」は開祖元三大師が宮中で三百日の護摩供を修せられた時に三匹の鬼(赤鬼=貪欲、青鬼=瞋恚、黒鬼=愚痴)が出現し、その三鬼を独鈷、三鈷の法器でもって退散させたという故事による。その独特の節分行事は、京都市の冬の代表的行事でもある。また、この地全域が昭和四十年、角田文衛博士によって紫式部の邸宅跡であると考証発表されたのである。紫式部の曽祖父にあたる権中納言藤原兼輔堤中納言)が此の地に邸宅を構えたのが始まりで、「源氏庭」と称する庭に咲き誇る桔梗が美しく、庭園美を醸し出している。
紫式部はこの地で育ち、結婚生活を送り、「源氏物語」を執筆したのである。


「境内案内」より