京都御苑内三社

京都御苑内に鎮座する「厳島神社」「宗像神社」「白雲神社」の三社。
宗像神社は、三代実録の中にみえる国史見在社であるという。

厳島神社

祭神
 市杵島姫命
 湍津姫命
 田心姫命
 祇園女御

当社は往昔 平相國清盛公 安藝の國左伯郡に坐す嚴島大神を崇敬の余り攝津の國莵原郡兵庫築島(神戸市兵庫区永沢町)に一社を設けてこの大神を勧請し給い鎮祭されたのであり後 故あって側らに清盛公の母儀祇園女御をも合祀されました 後世年を経てこの九條家邸内 拾翠池の嶋中に移転遷座されたのであります(濫觴年代等は天明八年京都大火の砌 旧地悉く焼失して詳でありません)この地 旧公爵九條家の邸内に属せしにより自ら同家の鎮守となりました 又古くより家業繁栄 家内安全の守護神として一般の人々よりも深く崇敬されているところであります
神前の鳥居(重要美術品)は破風形の鳥居として有名であり詳細は本殿横の由来書を御覧ください

「境内案内」より


宗像神社

 本社は宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命主祭神として祀る。宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神(交通・運送の神)、また海の神(出産、生産、産業・文化の神)として信仰されている。
 この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇ご誕生の地である。
 社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦十四年(795)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請(神様をお招きすること)し、創建されてたと伝えられる。その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものである。
 明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその邸内にあったが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残った。境内には樹齢六百年といわれる京都御苑内最長老の楠の巨木があり、桜の老木は御所の紫宸殿の左近の桜を拝領したものである。また「葉書」の語源となったとも言われる「多羅葉」の樹が社殿正面にある。境内社として花山稲荷社、京都観光神社、少将井社、繁栄稲荷社、金刀比羅宮がある。

「境内案内」より

鳥居

社殿

花山稲荷大明神

京都観光神社

琴平神社

繁栄稲荷神社

少将井神社

白雲神社

 御祭神は妙音弁才天と称え市杵島姫命を祀る
琵琶を家職とする西園寺家に楽神として伝えられ 太政大臣西園寺公経卿北山第(京都 衣笠 大北山の西北 現在の金閣寺がその旧址である)の造営にあたり妙音堂を第一に建立、元仁元年(1224)十二月別当成就心院に回向せしめ皇后邦子内親王(安嘉門院)臨御せられたのを奉斎の始めとする筯鏡、中務内侍日記、太平記等に当時の風雅なたたずまいがうかがわれるがその後同家の盛衰に伴い変遷あり近古には赤八幡京極寺に鎮座されたと伝えられる
 明治六年(1769)前内大臣西園寺公晃卿、前右大臣西園寺賞季卿勅許を賜り同家邸内(当地)に妙音堂を再興、天保十一年(1840)安政四年(1857)の社殿修築に際しては禁中各御所より御寄付を賜り禁裏御祈祷所と定められた。明治から昭和にかけて首相あるいは元老として近代日本の礎を築いた西園寺公望卿が家塾「立命館」を開設したのもこの地である
 明治十一年(1878)神仏混淆の作法を神式に改め社号を白雲神社とする
 御神徳あらたかなる霊社として崇敬者は京都府下は元より近畿一円にあまねく

「境内案内」より

鳥居

社殿

福壽稲荷神社

磐座かな?