千葉神社

千葉神社は、千葉市中央区院内に鎮座。

御祭神
主祭神
 天之御中主大神
 =北辰妙見尊星王(通称 妙見様)
相殿神
 経津主神 日本武尊

御由緒
 千葉氏の祖・平良文がこの妙見尊に祈願して、戦うごとにご加護をいただき、常に大勝利を得ておりましたので、千葉家では代々守護神として熱烈な信仰をささげてまいりました。このような関係から、現在地には千葉家三代忠常により先に御分霊が祀られ(年代不詳)、その後、忠常の次男、覚算大僧正により立派に伽藍整備がなされ、一条天皇の眼病平療の勅願所としての功とも相まって長保二年(1000)旧暦九月十三日、『北斗山金剛授寺』なる寺号を賜り中興開山されました。
 さらに、千葉家七代常重により大治元年(1126)には、この信仰の頂点に立つ御本霊を千葉情よりお遷し申し上げることにより合祀。

リーフレット」より略

尊星殿

福徳殿

月天楼「光輝柱」、日天楼「陽明柱」


社殿


千葉天神

境内末社

南明山 清瀧寺

南明山 清瀧寺は、茨城県土浦市小野にある寺院。
坂東三十三観音の第26番札所です。

 坂東33ヶ所霊場の26番札所で有名な清滝観音は、推古帝15年(607)に竜ヶ峯に創建され、大同年間(806-810)徳一上人により古観音に移されたと伝えられる真言宗の寺です。
 七堂伽藍を備えた大きな寺は、天正年間(1573-1592)小田氏・佐竹氏の兵火により焼失し、江戸時代に現在地へ再建されたと伝えられているが、昭和44年(1969)本堂、昭和48年(1973)仮堂が火災にあい、現在の本堂は昭和52年(1977)に再建されました。
 江戸時代に建てられた山門が、昔日の面影を残しています。

「境内案内」より

境内入口

山門

観音堂

弘法大師

筑波山神社

筑波山神社は、茨城県つくば市筑波に鎮座。
筑波山中腹に拝殿、男体山・女体山山頂に本殿。

延喜式神名帳に載る常陸国 筑波郡筑波山神社二座」に比定され、
男体山本殿が名神大社、女体山本殿が小社にあたる。

 筑波山は、伊弉諾尊伊弉冉尊二神御降臨の霊山で、西峰に男大神、東峰に女大神を祀り、筑波山神社と崇め奉る。世々筑波国造が奉仕し 嵯峨天皇弘仁十四年正月官社となり、延喜式名神大社に列す。
 慶長の初め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍家第一等の御祈願所と定め、寛永十年十一月三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を悉く寄進造営し輪奐その美を尽す。御神領千五百石。元治元年の筑波山義挙を経て、明治元年三月、神仏分離の令により当山は神体山信仰の古制に復し、明治八年拝殿を造営す。
 その後、昭和三年四月文部省古社寺保存課安間立雄技手の設計管理にて唐破風千鳥破風付銅板葺入母屋造りに改修し、昭和三十年五月男体山御本殿を改築す。
 昭和五十一年五月二十四日・二十五日の両日 天皇・皇后両陛下 当山に御幸啓遊ばされ、全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。越えて昭和五十四年五月御本殿御造営奉賛会を結成して、六十五年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し、更に記念事業として九十五年前建築の社務所に代え、「人民集賀」と御神徳を称えた常陸風土記縁月の参集殿を建立して千手堂に三重塔を配した江戸時代の結構の再現、及び百年前に亜鉛板で仮葺きした随神門屋根の改修をはかり、氏子崇敬者からの浄財寄進により左の事業を行い、明治以来の宿願を達成す。

「境内石碑」より

筑波山神社から御幸ヶ原コースで登山し、男体山・女体山の山頂へ、白雲橋コースで下山したので回った順で掲載します。


筑波山神社

鳥居

随神門

拝殿

日枝神社春日神社・拝殿

朝日稲荷神社(通称 出世稲荷)


〜 御幸ヶ原コース 〜
へばっていたので、写真は少ないです。。


男体山
男体山御本殿


男体山から女体山へ 〜

常陸帯神社

分からず

ガマ石


〜 女体山 〜

女体山御本殿


〜 白雲橋コース 〜

小原木神社と北斗岩

渡神社

高天原 稲村神社

聖天神社

白蛇弁天

筑波山 大御堂

筑波山 大御堂は、茨城県つくば市筑波にある寺院。
坂東三十三観音の第25番札所です。

平安時代のはじめ、延暦元年(782)にこの地を訪れた徳溢法師が伽藍を建立し、千手観音を安置した寺である。そののち、大同年間(806-809)には、弘法大師筑波山を踏破して、密教をこの地にひろめるきっかけをつくった。これによって、堂宇を建立し、知足院中禅寺と名づけた。いまも求聞持堂や護摩壇石などの跡が残されている。

「古寺巡礼辞典」より

二宮神社

二宮神社は、東京都あきる野市二宮に鎮座。
武蔵国二宮。

鎮座地 東京都秋川市二宮二,二五二番地
御祭神 國常立尊

由緒

創立年代不詳、往昔より小川大明 または 二宮大明神と稱した。
小川大明神とは、その鎮座地が「和名抄」記載の武蔵國多摩郡小川郷の地区内にあった為で、又 二宮大明神とは、「神道集」又は、「私案抄」等にみられる武蔵總社大所宮(現大國魂神社)所座神座の第二次にあるがため、その地名も二宮と稱した。明治三年 二宮神社と改稱した。古記録によると、藤原秀郷が、己の生國山王二十一社中の二宮を尊崇せる縁故をもって、特に当社を崇敬し、天慶の乱にさいし、戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営下って源頼朝北条氏政も崇敬篤く、ことに北条氏照滝山城主となり、同氏の祈願所とした。爾後神殿神官宅罹災により、記録の大半が焼失、天正十九年 徳川家康より御朱印十五石を受け 以後 代々継承されてきた。

「境内案内」より

鳥居

拝殿


以下、境内社

荒波々伎神社

諏訪神社

稲荷神社 天津社 八雲神社 八幡神社 伊勢神社

稲荷神社