中宮寺

中宮寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。
神仏霊場巡拝の道の第27番です。

 当時は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方五〇〇メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和三十八年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当寺は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼荼羅は、講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
 その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半跏像のみ居ますと云った状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。
 宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このかた千三百年余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。

リーフレット」より