向日神社
向日神社は、京都府向日市向日町北山に鎮座。
「延喜式」神名帳の乙訓郡「向神社」に比定される。
また、合祀の火雷神社は、「乙訓坐大雷神社名神大、月次新嘗」の論社。
向日丘陵南端部、乙訓地域を一望できる最良の地に鎮座する当社は、『延喜式』神明帳に記載された式内社で、「向神社」と称されていました。『向日神社略記』によれば、後に乙訓坐火雷神社を併祭して現在に至っています。後世、向神社を上ノ社と呼び五穀豊穣の神、火雷神社を下ノ社と呼び祈雨・鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは古書に数多く見られます。神社の創建は、養老二年(718)に六人部氏が当地を賜ったことに始まるといわれます。
棟札によれば、本殿は慶永二五年(1418)より四年の歳月をかけて建造されたもので、造営は、向日市域内外の七ヶ村の共同事業として行ったことを記しています。本殿の建物は、三間社流造で、創建年代のわかる室町時代の代表的な神社建築として重要文化財に指定されています。現社殿は、透塀を囲んで本殿覆屋があり、幣殿・拝殿と連結して権現造のような一連の建物を呈しています。また、明治神宮本殿は、当神社をモデルとして建立されました。
現本殿は、東面して建っていますが、江戸時代の『山州名跡志』等には、南面した姿が描かれています。本殿の背後には、京都府下最古の前方後方墳・元稲荷古墳が所在しており、当神社の地が、古くから乙訓地域を治める人々の聖域であったことが伺われます。
当社の神官六人部氏は、平安時代以来の由緒を伝える家系で、特に幕末にでた六人部是香は有名です。是香は、平田篤胤に師事し、多数の書を著わした国学者で、倒幕運動の一翼を担っていました。京の情勢を窺うに便利な六人部家には、坂本竜馬や中岡慎太郎も立ち寄ったといわれます。「境内案内」より
舞楽殿
以下、境内社。
増井神社
勝山身代不動尊
祖霊社