石楯尾神社(名倉)

石楯尾神社は、神奈川県相模原市緑区名倉に鎮座。
延喜式高座郡石楯尾神社の論社の一つ。

参拝した際、たまたま神職の方?が清掃に来られて、境内の案内がてら神社のお話をたくさん伺うことができた。
お話を伺う機会は希少なので、とても勉強になりました。

産土神 延喜式内 石楯尾神社通称名倉の権現様)

*御祭神 石楯尾大神(石楯尾神社にお鎮まりになっている神様)

*由緒
 天然の神籬磐境であるエボシ岩関係の神様の必要あって御くだりになった所の産土地に建てられた産土の神社であるので、総産土神と申しあげ、高位の神々様が数多くお鎮まり遊ばされて居り、創立は今より2000年以上前の、崇神天皇より前のようであり、応神天皇が御臨幸遊ばされたとの記録もある。
 今から1120年前の文徳実録に、天安元年5月丙辰、従五位下石楯尾神官社に預るとあり、相模国只一社の官社である。
 今から1080年前の醍醐天皇の御代編纂の延喜式神名帳に相模十三社の一の延喜式内社と記録されている。
 源頼朝が祈願所として御墨印七十五石余を寄進、七つの大鳥居と建てたと、今神社の近い所に鳥居原の地名が残っている。
 後柏原天皇文亀3年(475年前)二条関白殿下十六世後胤監物大夫陽近が勅使として参向、本殿等七十五ヶ所の御造営をした。
 奥三保十八ヶ村・川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村総社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永禄12年(412年前)10月18日、武田信玄の為、社殿悉く烏有に帰し、古記録まで焼失した事は惜しい事であった。後に再建されたが、享保2年祝融の災にあい、現在の社殿は、中御門天皇享保9年(253年前)に建築されたもので、光格天皇文化5年(172年前)文化6年には神祇官より幣帛が献上されて今に残り、明治6年社格制度に際しては、津久井郡内只一社の郷社に列した。明治44年末社が合併され、大正12年2月5日神奈川県告示第二十六号により、幣帛指定神社に指定され、昭和43年1月24日神奈川県神社庁献幣使参向神社に供進された。

  昭和六十二年八月二十六日


 *由緒確定までの経過
 私が神職になった大正11年の頃は、神社明細帳の由緒は「元亀元年焼失につき不詳」となって居て、困った事だと思った。津久井郡内只一社の郷社であるので、国では資料があると思い、神社昇格願・明細帳訂正願など文献を調査して七回出し、20ヶ年の歳月を要して、昭和17年1月26日、神社明細帳の訂正が許可され、延喜式内社である事を国家が承認した。
 昭和20年敗戦により、世が混乱し、自由の世となり異説が出て来た。之を正すために、御祭神の御導きによる実態の御示し、正論の証明が過去の文書として発見され、之により、名倉の石楯尾神社が延喜式内社である事が実証された。これまで65年の歳月を要した。尊い石楯尾大神の御導きの賜であるので付記する。

「境内案内より」

鳥居

参道の石段

三門 ※神仏習合の名残だそうだ

社殿

境内は綺麗に清掃されていました

社殿右手の境内社
稲荷神社

御嶽神社

春日神

蔵祖神社

稲荷神社

疱瘡神

天満天神宮

住吉神社

榛名神社

日月両宮

浅間神社

大国様

社殿左手

折れ曲がっている木(種類は聞いたのだが忘れてしまった。。。)