氷川神社
氷川神社は、さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。
武蔵国一宮。ただ、諸説あるようで、武蔵国総社「大國魂神社」には三宮として祀られています。
「延喜式」神名帳に載る武蔵国 足立郡「氷川神社 名神大月次新嘗」に比定される。
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮定の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っております。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われておりました。
明治元年には明治天皇が氷川神社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり、当社に行幸、御親ら祭儀を執り行われ、同三年にも再び御親祭されました。明治四年には官幣大社に列せられ、同十一年には明治天皇が三度目の御親拝をされ、大正十年には大正天皇が御親拝されました。
昭和九年には昭和天皇が御親拝、同三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝され、同四十二年には社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、昭和天皇・皇后両陛下御揃いで御親拝され、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われました。昭和六十二年には今上陛下が皇太子時に同妃殿下と御揃いで御参拝され、平成五年五月には天皇皇后両陛下が御揃いで御親拝になられました。「境内案内」より
以下、摂社・末社
[末社] 稲荷神社
[摂社] 天津神社
中山神社
中山神社は、さいたま市見沼区中川に鎮座。
氷川神社・氷川女体神社と関係が深い神社です。
〈御祭神〉
大己貴命(大国さま)
素戔嗚命
稲田姫命
〈歴史〉
当社は、さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する「武蔵一宮氷川神社」と、同市緑区宮本(三室)に鎮座する「氷川女体神社」を結ぶ線上のほぼ中間に位置することから、古くより関係の深い社として「中氷川神社」とも呼ばれていた中川の鎮守です。この三社については、各社共に素戔嗚命(氷川女体神社は三穂津姫命を祀る)・稲田姫命・大己貴命の三座を主祭神に挙げながらも、それぞれ筆頭とする祭神を高鼻の氷川神社は素戔嗚命で男体社に、宮本(三室)の氷川女体神社は稲田姫命で女体社に、そして当社は大己貴命で、先の二神の子孫に当たるとして氷(簸)王子社というように、この三社で『延喜式』神名帳・武蔵国足立郡四座の内の「明神大社氷川神社」であったとする説もあります。
社伝によると、当社の創建は人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられています。また天正十九年(1591)十一月に、徳川家康から社領十五石の御朱印地を賜った格式のある神社です。
現在の社号は、明治四十年七月に当地中川をはじめとする片柳村の西部に位置する南中野・新右衛門新田・上山口新田・南中丸の各大字に祀られていた神社が当社に合祀されたことにより、それまでの社号であった「氷川社」を鎮座地中川の「中」と江戸期の新田開発以来、氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせて中山神社と改称したものです。「境内にあったリーフレット」より
神明社、飯成社、淡嶋社、疱瘡守護社、磐神社、石上社、竈神社、稲田宮主社
氷川女体神社
氷川女体神社は、さいたま市緑区宮本に鎮座。
「延喜式」神名帳に載る武蔵国 足立郡「多気比売神社」の論社とか。
近世の文書・棟札には、武蔵国一の宮と記す。
氷川女体神社は、県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一宮といわれてきた。社伝では、崇神天皇の時につくられたと伝えられている。
祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穗津姫命が合祀されている。
大宮の氷川神社(男体社)、大宮市中川の中山神社(簸王子社)とともに見沼とは深い関係にあり、祭礼の「御船祭」は見沼の御上で行われていた。しかし、享保一二年(1727)に見沼が干拓され、これに代わって出島で「磐船祭」が行われるようになった。
この氷川女体神社には鎌倉、室町時代の社宝が多く、三鱗文兵庫鎖太刀(国認定重要美術品)、牡丹文瓶子(県指定有形文化財)、大般若波羅蜜多経(同)、神輿(同)は特に著名である。
江戸時代には社領五〇石が寄進されており、現本殿は徳川家綱によって再建された。
また、境内の社叢は市指定天然記念物であるとともに県のふるさとの森として保護されている。「境内案内」より
竜神社
調神社
調神社は、さいたま市浦和区岸町に鎮座。
「延喜式」神名帳に載る武蔵国 足立郡「調神社」に比定される。
当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祭神とする
延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる
倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなる為 鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る「境内由緒書」より
調宮 天神社
金毘羅神社
明治神宮
明治神宮は、東京都渋谷区代々木神園町に鎮座。
初詣の参拝者数は日本一だそうだ。
…
天皇の崩後間もなく、"明治大帝"としてその聖徳を景慕する国民の間から、明治天皇を祀る神宮建設のことが輿論として盛り上った。この国民的感情が基礎となり、まず大正二年(1913)十一月、社地として青山練兵場が選ばれ、翌十二月神社奉祀調査会が生れた。ついで翌三年四月明治天皇の皇后(昭憲皇太后)が崩御されたため、国母陛下として仰いできた国民の声に応じて、八月さらに昭憲皇太后を相殿に祭ることに決した。翌四年四月、伏見宮貞愛親王を総裁とする明治神宮造営局が設置され、社号を明治神宮とし、完成後は官幣大社たるべきことが定められ、新たに社地を代々木に選定して、同年秋から着工した。ところがたまたま第一次世界大戦が起り、物価騰貴や労働力の不足などのために工事はすこぶる難行した。しかし全国の青年団員や民間有志の労働奉仕によって、大正八年七月に上棟祭が行われ、翌九年十月に社殿並びに内苑の規模が完成、十一月一日両祭神の鎮座祭が行われた。この間全国から寄せられた十万余の献木はいまも神宮の森として国民に親しまれている。また鎮座以来、明治神宮は勅祭社の一に加えられ、例祭当日には勅使を差遣して奉幣される例となった。
…「日本史小百科」より