埼玉縣護國神社

埼玉縣護國神社は、さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。

祭神
鳥羽伏見の役以後の國事に殉じた埼玉県関係の英霊五万一千余柱を祀る

沿革
昭和九年四月九日埼玉県招魂社として設立鎮座し 同十四年三月神社制度の改正により 埼玉県護國神社と改称され四月に指定護國神社となり 例大祭には神饌幣帛の供進がなされたことになった 同二十一年二月神社制度の変革により宗教法人埼玉県護國神社と改められ更に同二十三年十月埼霊神社と改称 同二十七年再び埼玉県護國神社と改称し現在に至る 昭和三十年一月奉賛会が設立せられ以来年々の例大祭は埼玉県民挙て厳粛盛大に行っている

「境内案内」より

中山神社

中山神社は、さいたま市見沼区中川に鎮座。
氷川神社・氷川女体神社と関係が深い神社です。

〈御祭神〉
大己貴命(大国さま)
素戔嗚命
稲田姫命
〈歴史〉
 当社は、さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する「武蔵一宮氷川神社」と、同市緑区宮本(三室)に鎮座する「氷川女体神社」を結ぶ線上のほぼ中間に位置することから、古くより関係の深い社として「中氷川神社」とも呼ばれていた中川の鎮守です。この三社については、各社共に素戔嗚命(氷川女体神社は三穂津姫命を祀る)・稲田姫命大己貴命の三座を主祭神に挙げながらも、それぞれ筆頭とする祭神を高鼻の氷川神社素戔嗚命で男体社に、宮本(三室)の氷川女体神社は稲田姫命で女体社に、そして当社は大己貴命で、先の二神の子孫に当たるとして氷(簸)王子社というように、この三社で『延喜式神名帳武蔵国足立郡四座の内の「明神大氷川神社」であったとする説もあります。
 社伝によると、当社の創建は人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられています。また天正十九年(1591)十一月に、徳川家康から社領十五石の御朱印地を賜った格式のある神社です。
 現在の社号は、明治四十年七月に当地中川をはじめとする片柳村の西部に位置する南中野・新右衛門新田・上山口新田・南中丸の各大字に祀られていた神社が当社に合祀されたことにより、それまでの社号であった「氷川社」を鎮座地中川の「中」と江戸期の新田開発以来、氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせて中山神社と改称したものです。

「境内にあったリーフレット」より

鳥居

境内

拝殿

旧社殿

神明社、飯成社、淡嶋社、疱瘡守護社、磐神社、石上社、竈神社、稲田宮主社

稲荷神社

御火塚

氷川女体神社

氷川女体神社は、さいたま市緑区宮本に鎮座。
延喜式神名帳に載る武蔵国 足立郡多気比売神社」の論社とか。
近世の文書・棟札には、武蔵国一の宮と記す。

 氷川女体神社は、県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一宮といわれてきた。社伝では、崇神天皇の時につくられたと伝えられている。
 祭神は奇稲田姫命で、大己貴命三穗津姫命が合祀されている。
 大宮の氷川神社(男体社)、大宮市中川の中山神社(簸王子社)とともに見沼とは深い関係にあり、祭礼の「御船祭」は見沼の御上で行われていた。しかし、享保一二年(1727)に見沼が干拓され、これに代わって出島で「磐船祭」が行われるようになった。
 この氷川女体神社には鎌倉、室町時代の社宝が多く、三鱗文兵庫鎖太刀(国認定重要美術品)、牡丹文瓶子(県指定有形文化財)、大般若波羅蜜多経(同)、神輿(同)は特に著名である。
 江戸時代には社領五〇石が寄進されており、現本殿は徳川家綱によって再建された。
 また、境内の社叢は市指定天然記念物であるとともに県のふるさとの森として保護されている。

「境内案内」より

鳥居

社殿

竜神

境内

調神社

調神社は、さいたま市浦和区岸町に鎮座。
延喜式神名帳に載る武蔵国 足立郡調神社」に比定される。

当社は天照大御神豊宇気姫命素戔鳴尊の三柱を祭神とする
延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる
倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなる為 鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る

「境内由緒書」より

境内入口

拝殿


調宮 天神社

金毘羅神社

稲荷神社は、工事中。仮殿に祀られていました。

明治神宮

明治神宮は、東京都渋谷区代々木神園町に鎮座。
初詣の参拝者数は日本一だそうだ。


 天皇の崩後間もなく、"明治大帝"としてその聖徳を景慕する国民の間から、明治天皇を祀る神宮建設のことが輿論として盛り上った。この国民的感情が基礎となり、まず大正二年(1913)十一月、社地として青山練兵場が選ばれ、翌十二月神社奉祀調査会が生れた。ついで翌三年四月明治天皇の皇后(昭憲皇太后)が崩御されたため、国母陛下として仰いできた国民の声に応じて、八月さらに昭憲皇太后を相殿に祭ることに決した。翌四年四月、伏見宮貞愛親王を総裁とする明治神宮造営局が設置され、社号を明治神宮とし、完成後は官幣大社たるべきことが定められ、新たに社地を代々木に選定して、同年秋から着工した。ところがたまたま第一次世界大戦が起り、物価騰貴や労働力の不足などのために工事はすこぶる難行した。しかし全国の青年団員や民間有志の労働奉仕によって、大正八年七月に上棟祭が行われ、翌九年十月に社殿並びに内苑の規模が完成、十一月一日両祭神の鎮座祭が行われた。この間全国から寄せられた十万余の献木はいまも神宮の森として国民に親しまれている。また鎮座以来、明治神宮は勅祭社の一に加えられ、例祭当日には勅使を差遣して奉幣される例となった。

「日本史小百科」より

鳥居

南参道

大鳥居

鳥居

南神門

境内

社殿

東郷神社

東郷神社は、東京都渋谷区神宮前に鎮座。
旧府社。現、別表神社

祭神 東郷平八郎
由緒沿革
東郷平八郎命は弘化四年(1847)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島市加治屋町で生まれ昭和九年(1934)五月三十日八十八歳で東京麹町三番町で薨去されました
明治四年(1871)二十四歳のとき英国留学七年間海軍士官としての修業をつまれました 以来軍務に精励し同三十七、八年(1904、5)の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し特に同三十八年五月二十七、八日の日本海海戦で露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ国難を救ったことは有名であります
大正三年(1914)東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重大な責任を果され明治、大正、昭和と三朝に至誠一貫臣節を全うされました その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵の栄誉が贈られ高い人格と陰影なきまごころの人として日本だけでなく世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるようになりました
昭和九年九月財団法人東郷元帥記念会が設立され全国民崇敬者の協賛により同十五年五月(1940)創建鎮座祭を執行し府社となり別格官幣社列格寸前の同二十年(1945)五月戦災により一切炎上しました 戦後は仮殿に奉斎 同三十九年(1964)の祭神三十年祭を目標として同三十三年五月復興奉賛会の設立となり全国崇敬者の絶大なる協賛を得て御社殿復興 同三十九年五月二十七日御遷座祭を執行し二十八日竣工 奉祝祭並に三十年祭が盛大に斎行されました 同五十九年(1984)は祭神の五十年祭並に復興二十年記念祭に相当するので数年を費して神符授与所、透堀、西参道灯籠四基、北参道鳥居再建、池の改修井戸新さく、旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め同五十九年五月に五十年式年例大祭・次いで命日祭・五十年墓前祭(於多磨霊園)が厳修されました
平成二年(1990)には御鎮座五十年記念に当り崇敬者各位の據金によって御鎮座五十年記念事業として御社殿改修、神池の整備、社務所・和楽殿の改修・新築、記念出版等を完遂しました。

「境内案内」より

鳥居

神門

社殿

海の宮

観谷山 聖輪寺

観谷山 聖輪寺は、東京都渋谷区千駄ヶ谷にある寺院。
御府内八十八ヶ所の第10番札所。

聖輪寺観音略縁起

神亀二年(725)五月、行基菩薩北越遊行の時、此地に暫く休息されました。谷の中より光がさし、聖如意輪観音が出現し、「此地は我に因縁あり、汝よろしく我姿を彫刻し、来世の衆生に結縁させよ、広く利益を与える事であろう」と申され、大きな古木の本に消えました。行基菩薩は感激し、その古木を加持し、三尺五寸の如意輪観音像を彫み石の上に安置しました。
これ故に山号を観谷山、寺号を聖輪寺と号することとなった。
文明(1469)の頃、渋谷氏一門の何某、この尊像を深く信仰し、その家は日々に栄え、子孫繁栄、富貴自在の身分となり、世の人々より黄金長者と呼ばれるようになった。同氏は堂宇を営造しこの尊像を崇いました。
青山長者丸という所はこの黄金長者の跡である。
天正(1573)の頃、この里の童達が集りこの尊像を前の川へ運び、共に水浴びして遊びました。不思議な事に、ある夜、里人の夢の中に尊像が現れ「善哉善哉、童達毎日、吾を浴びせし縁より、一切の病難から救うであろう、汝ら疑う事なかれ」と告げました。その頃、国中に疱瘡が流行ましたが、この里の人々は病気から免れ、これ偏に観音の大悲護念のしるしであると、この時より尊像の扉を閉め秘仏として崇め奉りました。
又、慶長三年(1596)三月、盗賊が忍び入り、この観音の双眼は、黄金であると伝へ聞き、鑿で取り去ろうとした時、守護神の罰か、自然に自ら所持していた鑿に貫かれて死んだ。甲賀組の高橋四郎左衛門が親たりにこれを見、観音の霊験に驚き堂宇を再興して敬った。
これより観音は「目玉の観音」「千駄ヶ谷観音」と呼ばれ信仰を集めた。
『文政寺社書上』観谷山聖輪寺観音略縁起より
  宝歴五年(1755)豊山池坊僧正信怒録
尚『江戸砂子』に、「この江戸において千余歳を数える霊場浅草観音と当寺である」と記されている。

「境内案内」より